反体制天文物理学者・方励之氏 中国出国、日本が協力

■秘密会談…円借款武器に交渉
【北京=伊藤正】世界を震撼(しんかん)させた天安門事件(1989年6月)直後、中国の反体制天文物理学者、方励之博士夫妻が北京の米大使館に保護された事件は米中の政治対立に発展、難交渉が続いたが、1年後の90年6月25日、夫妻の英国への出国で解決した。中国側が突然、強硬姿勢を変えた背景に、円借款を武器にした日本の対中交渉があったことが、関係者の証言でこのほど明らかになった。
当時、北京で中国との難交渉に当たったジェームズ・リリー駐中国米大使(肩書は当時、以下同)は、本紙ワシントン支局の取材に、円借款などの資金協力が解決のカードになったことを認め、「(対中折衝をした)橋本(恕)大使には大いに助けられた」と述べた。
方励之夫妻が大学生の息子とともに米大使館に逃れたのは、天安門事件翌日の6月5日。中国は2日後、リリー大使を呼び、夫妻の身柄引き渡しを要求した。中国は夫妻を「反革命宣伝扇動罪」で指名手配、米大使館周辺を武装兵で固め、出入りを監視した。米側はスコウクロフト大統領補佐官を89年7月と12月に派遣するなどして打開を図るが、中国は国内法や国際法を盾に一歩も譲らない。
「方氏は米学術界や人権団体と関係が深く、民主運動家として名高い(ため引き渡しはできない)。一方、中国は反革命犯を逮捕し、処刑さえできる合法的権利を有していた」(リリー氏)
中国は「反方励之=反米キャンペーン」を展開、米側が身柄を引き渡す以外に解決策はないと主張した。米側の足元を見て、天安門事件後の対中制裁解除など、取引のカードにしたとも解された。
リリー大使は、89年秋以降、橋本大使と頻繁に意見交換したが、方励之問題と制裁解除の関連もその一つだった。そのきっかけになったのは、72年の日中正常化当時、中国課長として中心的役割を担い、中国側の信頼が厚かった橋本氏と李鵬首相の秘密会談だ。
橋本氏によると、会談は同年12月、2度目のスコウクロフト訪中が不調に終わった後で、李首相は対中円借款の歴史や意義について話し、「政府間の約束事であり、第3次円借款も必ず実行してほしい」と要請した。
第3次円借款は88年に訪中した竹下登首相が約束し、90年から5年間に8100億円(約56億ドル)、89年末当時の中国の外貨準備高に匹敵する額だったが、89年7月の先進7カ国首脳会議(アルシュ・サミット)の対中制裁措置として凍結されていた。
当時インフラ整備に懸命だった中国にとって、サミットで同時に凍結された世銀融資(約23億ドル)と合わせ、第3次円借款は死活的重要性を持っていた。橋本氏は「李首相は必死で、凍結は相当こたえていると感じた」という。
海部俊樹政権は90年初め、政財界の強い圧力もあって対中制裁解除に動き、外務省は90年7月のヒューストン・サミットで前年の決議を修正する戦略目標を立てる。それには米国との共同歩調が必要であり、90年春、宮本雄二中国課長(現駐中国大使)を派遣、米側の動きを探った。
だが宮本氏の報告は否定的だった。「米議会と世論の対中非難は強烈で政権内でも制裁解除は論外という空気だ。方励之問題への反発が強くその解決なしには難しい」
外務省から打診された橋本大使は、旧知の朱良共産党対外連絡部長とひそかに会談を重ねた。橋本氏によると、対中折衝では「相手のメンツを考え」円借款にも方問題にも触れず、「われわれはヒューストン・サミットでの制裁解除に向け努力している。中国も適切な対応をしてほしい」と主張しただけという。「その意味を中国側は理解していた」(橋本氏)
中国側が方氏夫妻の出国を認めたのは6月中旬で、リリー氏によると、「橋本大使と中国側の接触の1週間ほど後だったと思う」。
中国は、方励之夫妻が米空軍機で出国した当日、「病気治療のため出国した」と発表。その2週間後のヒューストン・サミットで日米は共同歩調を取り、第3次円借款も世銀融資も凍結を解除された。方氏出国への日本の関与は日米中とも公表しなかった。
方励之夫妻は半年後、米国に移住、現在はアリゾナ大学で教鞭(きょうべん)を執っている。事情を知らない方氏は米国移住後、日本の対中制裁解除を批判する発言をしている。
|